尾小屋鉱山と横山鉱業部

橋本哲哉研究論文で、「鉱山史研究の大家である小葉田淳は名著『日本鉱山史の研究』の中で,加賀藩時代の鉱山について詳述している。その書き出しは「加賀藩には,越中国新川郡に七つかね山といわれた七か所の鉱山があって,藩政初期には藩のドル箱であったとしても誤りではない。それは,松倉・河原波・虎谷・下田の四金山,吉野・亀谷の二銀山および長棟鉛山である」(1)となっている。以下,虎谷・松倉・亀谷の3山を選び出し,分析している。ところで「加賀藩内には加賀・能登にも数か所の貴金属山が開かれているが,重要なものは越中新川郡かね山である」(2)としているように,近世においては加賀・能登の鉱山は重要な位置を占めてはいなかったといってよい。同書の「16〜19世紀中期の
重要鉱山分布図」(3)をみても,加賀・能登においては宝達・金平金山,倉谷銀山などの名をかぞえることができる程度である。金平・倉谷両山は19世紀末までその名をとどめて稼行はしていたが,いずれも小鉱山であった。もっとも小葉田はその分析対象とはしていないが,両山とも藩政前半期には安定した採掘が行われていたようである(4)。加賀藩時代の鉱山研究に新しい知見を加えることはできないが,これまでに近代以降の尾小屋鉱山(石川県能美郡)に関する若干の資料に接することができた。そこで近代以降の石川県鉱業の概要にふれた後,尾小屋鉱山の展開について分析を試みてみたい。」、とある。

倉谷鉱山は元々銀山であり、金は二番目くらいの位置関係にあった。金沢城の鉛が倉谷から運ばれたという記述も他者の研究で取り上げられているが、これは放射性同位体の研究から、富山の亀谷だと判明。倉谷上流の二叉川はその昔、東谷ともいわれ、有望な金の産地であった。

すると、もしもダムがなければ、いまも、沢山の砂金が流れていたわけだ。そして、その金の源は、その二叉川の上流か?いまでも、そこに行けば砂金が採れるのかな??しかし、熊の巣窟・・・ひや・・・・・恐ろし!!